2010年11月12日金曜日

車いす目線で福祉改革


大館出身の東京・葛飾区議が自伝出版

 「産み育ててくれた母への感謝とハンデがあっても努力すれば夢はかなうという思いを込めた」。小児まひが原因で下半身不随になり、車いすで生活しながら東京都葛飾区議を務める大館市出身の村松勝康さん(66)が、自伝「80センチに咲く花」(池田書店、1200円税別)を出版した。(松本健太朗)

 1歳の誕生日を過ぎた頃だった。母ミヨさんは高熱で真っ赤な顔をした村松さんをみて、「風邪だろう」と思い込み自宅で看病していた。数日後、熱が下がらず病院に連れて行くと医師から「小児まひ」だと告げられ、愕然(がくぜん)とする。

「自分のせいで、この子が一生歩けないなんて…」。責任を感じたミヨさんは、リンゴの行商をして治療代を稼ぎ、様々な病院に連れて行くが、治らない。村松さんが1年遅れで小学校に入学すると、ミヨさんは毎日、おぶって連れて行き、空き教室で内職をしながら授業が終わるのを待った。

 そんなミヨさんの献身的な姿に、村松さんも努力でこたえた。中学は特別支援学校だったが、健常者の行く高校に行きたいと睡眠時間を削り、猛勉強して県立鷹巣農林高校(北秋田市)に入学。その後、日本大学(東京都)に進学した。

 しかし、社会に出ると試練が待っていた。印刷会社に就職するも半年で、解雇。その後、職探しに奔走したが、雇用してくれる会社はなかなか見つからない。雇ってもらえても、「君の体では無理だよ。ウチは慈善事業をしているんじゃないよ」と告げられ、また解雇。

 「自分は世の中に必要のない人間。生きていても仕方がない」と自殺を考えたこともあったが、「どんな人でも世の中の役に立てる道が必ずある」という母の言葉を思い出し、職業安定所や企業まわりを続けた。

 採用と解雇の繰り返しで10社以上の会社を転々とした末、ようやく別の印刷会社に就職できた。その間、結婚し、子供も生まれた。気がつけば10年以上も、この会社にいる。安定した生活の中で、今度は不満が芽生えた。周囲が昇進する中、障害者の自分が平社員のままだったのだ。

 そんな中、村松さんが目にしたのが、ある地方市議が障害者の地方議員連盟の結成を呼びかける新聞記事だった。この市議と連絡を取り、やりがいを求めて出馬を決め、翌1991年、住んでいた葛飾区の区議選に立候補。毎朝6時、葛飾区内の駅前などの街頭で演説した。

 初出馬は落選したが、浪人中、障害者の雇用促進を訴えながら新潟から東京まで360キロを車いすで横断するなど精力的に活動し、2年後に初当選した。しかし、真っ先に報告したかった、ミヨさんは、その2か月前に亡くなっていた。

 以降、5期連続当選を果たし今や、議員生活17年目のベテラン区議だが、今でも毎朝、駅前などの街頭に出て、誰にでも住みよい町の実現を訴えている。また議会ではスロープや障害者用トイレなどの設置を求める発言を繰り返し、障害者の福祉向上に努めている。

 村松さんは半生を振り返り、こう言った。

 「立って歩くことができない自分の目線は、子供と同じ、地上から80センチくらい。どうしてこんな体になったと悔やんだこともある。しかし、その目線で見える世の中の生きづらさを見つけ、住みよい社会を築くことこそ、私の生きる意味だと悟った」

2010年11月12日付(読売新聞)

続きは・・・http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/akita/news/20101111-OYT8T01053.htm

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