2007年11月28日水曜日

障害者も一緒に楽しいXマスを 彦根で8日コンサート

障害の有無に関係なく聴けるコンサートを開いているNPO法人(特定非営利活動法人)が12月8日に県立大吹奏楽部の協力を得て彦根市の県立大交流センターホールでクリスマスコンサートを行う。

 東近江市のNPO法人「障害者の就労と余暇を考える会メロディー」と、それを支える県立大のボランティアサークル「ハーモニー」の主催。

 障害者の中には音楽を聴いて声を発したり歩き回る人もあり、一般のコンサート会場で音楽を聴くのは難しい。

 メロディーは障害の有無に関係なく楽しめるコンサートを目指し、4年前から活動してきた。昨年12月には地元のカルテットを招き、東近江市の宿泊研修施設で念願の初コンサートを開いた。

 ハーモニーのメンバーに同大学吹奏楽部員がいたことから今年は吹奏楽部約40人がボランティアで協力する。約40分間出演することが決まった。子どもも楽しめる曲やクリスマスソングなど7曲ほどの演奏を予定している。

2007年11月28日付(京都新聞)

続きは・・・http://kyoto-np.jp/article.php?mid=P2007112800099&genre=K1&area=S20

2007年11月26日月曜日

障害者福祉の現状知って 福知山・芦田理事長エッセー集出版 

 京都府福知山市昭和新町にある身体障害者通所授産施設「竹毛希望の家」の芦田ふゆ子理事長(63)がこのほど、家族や福祉についての思いをつづったエッセー集「幸せの道 いろんな道」(新風舎、B6判、127ページ)を自費出版した。

 芦田さんは、1995年10月から2004年2月にわたり、京都新聞「北の風」欄に27本のエッセーを寄稿。「障害者自立支援法によって、厳しくなる福祉の現状を知ってほしい」と思い、昨年末に出版を決めた。

2007年11月7日付(京都新聞)

続きは・・・http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2007110700057&genre=K1&area=K50

祖母との思い出語る 島田洋七さん、野洲で講演

 漫才師の島田洋七さんを講師に迎えた「生命尊重のつどい20周年記念大会」が25日、滋賀県野洲市小篠原の野洲文化ホールであった。市民約900人が会場を埋め、島田さんの軽快なトークに笑いがあふれた。

2007年11月26日付(京都新聞)

続きは・・・http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2007112600032&genre=K1&area=S10

2007年11月25日日曜日

低床バスの試験走行成功。草津「福祉ゾーン」バス運行廃止問題

滋賀県草津市笠山8丁目の「福祉ゾーン」のリフト付きバスの運行廃止問題で、帝産湖南交通(同市)は16日、車いす利用者も乗降できるノンステップバスの試験走行を行った。低床のバスでも安全運行に支障はなく、同交通は19日の経営会議でバス乗り入れに向け、今後の課題を協議する。

 同交通は、JR瀬田駅-滋賀医科大間で運行している同バスの路線延長を検討している。この日は、滋賀県立草津養護学校前の急坂を走行する際、低床の車両と路面が擦れないかを試した。各福祉施設や県、滋賀運輸支局の職員ら15人が見守る中、バスは安全に走行できた。しかし、県立障害者福祉センター前の停留所では、乗降口からスロープを出す場所の確保に課題が残った。

 同交通の中島与司男常務は「どの時間帯にノンステップバスを運行延長させるかなど、福祉施設側の要望も聞きながら、ダイヤ改正など社内の協議が必要」という。  養護学校など七つの福祉施設が集まる福祉ゾーンと、JR南草津駅を結んでいた同交通のリフト付きバスが老朽化に伴い、8月末で廃止され、車いす利用者から改善を求める声が上がっていた。

2007年11月16日付(京都新聞)

続きは・・・http://kyoto-np.jp/article.php?mid=P2007111600220&genre=K1&area=S10

9月28日に障害者福祉利用1割負担廃止へ 障害者自立支援法改正法案提出

民主党は9月28日午後、障害福祉サービス利用者の原則1割負担を廃止する障害者自立支援法改正法案(障がい者応益負担廃止法案)を参議院に提出。福山哲郎政調会長代理、谷博之参院厚生労働委員会筆頭理事、森ゆうこ、中村哲治、金子恵美各参院議員が参院事務総長室を訪れ、法案を手渡すとともに、山田正彦『次の内閣』ネクスト厚生労働大臣、山井和則同副大臣、園田康博衆院議員も同席して会見を行った。(民主党のHPより)

続きは・・・http://www.dpj.or.jp/news/dpjnews.cgi?indication=dp&num=11894

NPO法人、休眠2年で認証取り消し・犯罪への悪用防止

 市民活動などに利用される特定非営利活動法人(NPO法人)の根拠となっているNPO法(特定非営利活動促進法)が来年、改正されることが24日、分かった。休眠状態の法人を暴力団などが乗っ取り、悪用する事例が続発していることを踏まえ、事業報告書を出さない法人の認証取り消しを「3年間以上の不提出」から「2年間以上の不提出」に短縮するのが柱だ。

 同法は1998年に議員立法で制定された。今回は自民党の加藤紘一氏が会長を務めるNPO議員連盟が問題点に向け、12月にも改正案をまとめる。同議連は超党派のため、来年の通常国会で法改正が実現するのはほぼ確実だ。

2007年11月25日 7時更新

続きは・・・http://www.nikkei.co.jp/news/main/20071125AT3S2400B24112007.html

コンビニ前に自主製品の販売店 輪之内の福祉施設

輪之内町の障害福祉サービス事業所「たんぽぽの里」の利用者による自主製品の販売店が22日、同町四郷のコンビニ「ファミリーマート輪之内町店」の協力で、同店駐車場にオープンした。

 小規模授産施設だったたんぽぽの里は、昨年4月の障害者自立支援法施行により今年7月に指定就労継続支援事業所の指定を受けた。現在は利用者12人が、一般就労に向けて製造作業などに取り組んでいる。

 これまでも福祉大会の会場などを通じて製品を販売してきたが、事業所の指定要件である「1人当たり平均工賃月3000円以上」をクリアすることが困難に。そこで職員が町内で協力してくれる企業を探し回ったところ、コンビニを経営する浅野春美さん(46)夫妻が快諾して出店が決まった。

 浅野さんは同町の元小学校教諭。「職員たちの苦労もよくわかるので協力したいと思った」という。利用者の1人に新任教師時代の教え子もいて、この日は二十数年ぶりの再会も果たした。

 店で主に売り出すのは、利用者が絵柄を入れたタオル(100円から)。店舗前にテントを張り、毎週木曜の午前11時から2時間、利用者3、4人と職員が交代で店頭に立つ。ファミリーマート広報IR部(東京都)によると、コンビニの敷地内にこのような店舗を出すのは全国的にも大変めずらしいという。

 たんぽぽの里の田中実所長は「利用者たちが社会へ出る準備として大変良い機会。ぜひこれからも続けていきたい」と話していた。(中平雄大)

2007年11月23日付(中日新聞)

続きは・・・http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20071123/CK2007112302066548.html

久賀高福祉科の生徒が高齢者宅で対話実習

山口県周防大島町久賀の久賀高福祉科の一年生三十人が二十日、学校周辺の高齢者宅を訪問し、お年寄りとコミュニケーションを取ることの難しさや、分かり合う喜びなどを体験した。

 社会福祉基礎授業の一環で、初めての取り組み。生徒たちは教室内で礼儀作法や守秘義務について指導を受け、三人ずつ十グループに分かれて高齢者宅を訪ねた。初対面のお年寄りを前に緊張し、沈黙する場面も目立ったが、「趣味は何ですか」「お孫さんはどんな方ですか」などと積極的に質問する生徒もいた。

 山口和人君(16)は「話のきっかけをつかんで打ち解けることができた」と喜び、松嶋友香さん(15)は「将来、介護関係の職場で働く自信がついた」とやりがいを感じていた。訪問を受けた岩田惣治さん(84)も「ここに、福祉科があってよかった。これからも続けてほしい」と話していた。(大村隆)

2007年11月22日付(中国新聞)

続きは・・・http://www.chugoku-np.co.jp/Health/An200711220369.html

2007年11月24日土曜日

薬害肝炎「医師が伝えているはず」、当時の職員認識

 血液製剤「フィブリノゲン」でC型肝炎に感染した疑いが強い418人の症例リストの提出を受けながら、厚生労働省が本人に告知する措置を講じていなかった問題で、同省の対応を検証する調査チームは22日、調査の中間報告を発表した。

 リストが提出された2002年当時の関係職員は、「感染事実は医師が伝えているはずで、改めて告知する必要があるとは思わなかった」との認識を示していることが明らかになった。

 調査では、進行性の病気であることやウイルス感染の疑いがある血液製剤の投与について医師から知らされていない患者がいることが考慮されたかどうかは検証されていない。また、1987年前後に感染し、厚労省にその後、副作用報告があったケースが多いにもかかわらず、調査対象は02年以降の同省の対応に限られ、患者などからは公正さに疑問を投げかける声が出ている。

2007年11月22日付(読売新聞)

続きは・・・http://news.goo.ne.jp/article/yomiuri/nation/20071122ic23-yol.html

障害児世帯などの軽減拡充 負担、所得に応じた性格に

福祉サービスを利用する障害者の負担軽減策を検討している与党のプロジェクトチームが近くまとめる報告の原案が23日、分かった。2008年度から障害児のいる世帯と低所得世帯を対象に現行の負担軽減策を拡充。その上で、08年度までとなっている軽減策を09年度以降も続ける。

2007年11月23日付(京都新聞)

続きは・・・http://www.47news.jp/CN/200711/CN2007112301000278.html

2007年11月23日金曜日

くすりの情報ステーション

薬のデータベース「くすりのしおり」、刊行物一覧等。製薬企業からなる「くすりの適正使用協議会」が運営。 ... 薬剤疫学研究情報に『薬剤疫学論文の評価研究 その4』( これまでの追補および、神経系用剤とNSAID)を公開しました。 ...

続きは・・・http://www.rad-ar.or.jp/

「医療ミスで植物状態」 遺族、守山市に損賠提訴

全身の筋肉が動かなくなる難病「筋委縮性側索硬化症(ALS)」を発症した女性患者=当時(72)=が、1998年に守山市民病院(滋賀県守山市)の医療ミスにより、植物状態になったまま死亡したとして、遺族が20日までに、守山市に慰謝料など約3800万円の損害賠償を求める訴えを、大津地裁に起こした。

2007年11月21日付 (京都新聞)

続きは・・・http://kyoto-np.jp/article.php?mid=P2007112100026&genre=D1&area=S00

病院改築より医師確保 近江八幡で総務省の座長が講演

総務省の公立病院改革懇談会座長の長隆氏が21日、滋賀県近江八幡市出町の市文化会館で「病院のあり方を考える」と題し、赤字を抱える近江八幡市立総合医療センターをはじめ公立病院の課題などについて講演した。
 長氏は近江八幡市長の諮問機関「市立総合医療センターのあり方検討委員会」の委員に就任する予定。12月4日の初会合に先立って市が主催し、市民や市職員ら約150人が参加した。

2007年11月22日 (京都新聞)

続きは・・・http://kyoto-np.jp/article.php?mid=P2007112200074&genre=A2&area=S00

2007年11月21日水曜日

10億円をキャッシュで南足柄市に寄付

 ふるさとにどーんとビッグな恩返し-。神奈川県大磯町の横溝千鶴子さん(88)が米寿の誕生日を迎えた16日、「教育やスポーツ振興に役立ててほしい」と生まれ育った同県南足柄市に10億円を現金で寄付、市役所で贈呈式が行われた。

 市役所3階の会議室にピラミッド状に積み上げられた10億円は、1000万円の束が100個で、重さは約100キロ。市の本年度一般会計予算の6・7%、教育費の約53%に相当するプレゼントに職員らは思わず顔をほころばせた。

 横溝さんは旧南足柄村の出身。教育者の両親の元で育ち、戦後、高校教諭などを務めた後、夫(故人)と調理場設備関係の会社を興し成功した。1999年にも地元の大磯町に5億円を寄付し、障害者福祉施設の設立にかかわるなどしてきた。

 贈呈式で横溝さんは「ふるさとに恩返しできたのは人生最大の喜び。子供たちの教育のため、命ある限り続けたい」と穏やかな笑みを浮かべた。

 南足柄市は寄付金で横溝さんの名前を冠した基金を設立し、スポーツや文化活動で活躍した児童・生徒の表彰や子育て支援、教育関係の研究の助成などを行うという。

(2007年11月16日)日刊スポーツより

続きは・・・http://www.nikkansports.com/general/f-gn-tp0-20071116-283766.html

障害者、会社の戦力に 事業拡大へ子会社、売上高増支える

 従業員のうち、一定の割合で障害者を雇うことを定めた「特例子会社」を活用する動きが、大手企業を中心に広がっている。障害者の法定雇用率の引き上げなど、国による雇用促進策に加え、障害者をビジネスの「戦力」ととらえる方向に、企業の考えが変わってきたことが大きい。(高橋健太郎)

(2007年11月19日 読売新聞)

続きは・・・http://osaka.yomiuri.co.jp/possibility/news/ps71119b.htm

2007年11月18日日曜日

精神障害者の社会復帰支援 NPOがアパート確保

 入院の必要がなく、自立した生活を希望している精神障害者の社会復帰を支援しようと、秋田市のNPO法人・県心の健康福祉会(藤井明理事長)は、同市北部にアパート1棟を確保した。同会のサポートで障害者が共同生活を送るとともに、当事者同士の交流や支え合いを通じて社会復帰を促進する。 同会によると、NPO法人が精神障害者の社会復帰のためアパートを借り上げるのは県内で初めて。 通院中の当事者は親元を離れて生活することを望むケースが多いが、県内では居住場所となる福祉ホームやグループホームなどの受け皿が足りず、8割は保護者と同居しているという。しかし、当事者がアパートを借りようとしても保証人がいなかったり、周囲の偏見が根強かったりと実現が難しかった。
2007年11月16日付 (秋田魁新報 より)

続きは・・・http://www.sakigake.jp/p/akita/news.jsp?kc=20071116j

アトムと私 シリーズ

(15)迫る別れ、不安はあるが…
   共に学んだ経験 生かしたい

「アトムだけど、来年もう10歳になるよね。もうそろそろ引退させたいのだけど……」

 9月末、アトムを貸与されている京都市の介助犬訓練所から電話があった。アトムは10月28日に9歳の誕生日を迎えた。私に介助犬と暮らす希望を与えてくれたシンシアは、12歳の誕生日直前に引退した。アトムにも引退の時期が迫っている。

 「アトムと出会っていなかったら、今はどんな生活をしていると思いますか」

 電話を受けて間がない10月4日、講演先の岐阜市の小学校で、6年生の女児から質問された。「家から出るのが怖くて、大学に行かなかったかもしれないし、一人暮らしはもちろん、仕事もしていないかもしれません」と答えた。

 アトムは車いすに乗る私を、家の外の世界に連れ出してくれた。アトムなしで生活できるのだろうか。部屋で車いすから落ち、携帯電話に手が届かなかったら。物を落として誰もいなかったら……。考えるだけで、不安が膨らむ。

 しかも、新しいパートナーと出会うのは、そう簡単ではない。

 厚生労働省によると、介助犬は全国に40頭(10月1日現在)しかいない。特定非営利法人「日本介助犬アカデミー」(横浜市)の試算では、介助犬を希望すると推定される障害者は1万5000人に上るという。

 介助犬の訓練所は国内に24か所あるが、最多の育成実績を持つ「日本介助犬協会」(東京都八王子市)でさえ、育成できるのは年間4頭程度。現在、訓練中の犬が3頭、家庭で飼育されている候補犬が9頭いるが、うち介助犬と認定されるのは2~3割程度という。しかも障害の度合いや相性と合致しないと、介助犬と暮らすことは難しい。

 1頭に250万~300万円かかるとされる育成資金も不足している。同協会事務部の明地(あけち)久理子主任は「協会の活動資金の約7割は寄付金で賄っており、訓練士を3人雇うのがやっと。介助犬希望者のニーズに十分に応えられていないのが実情」と話す。

 近い将来、介助犬と暮らすことが難しくなる時が来るかもしれない。不安は尽きないが、アトムと一緒に学んだ社会経験を生かし、自分の生活を築いていきたいと思う。

 アトムとの生活を始め、取材を受けることによって、マスコミの力を実感した。身体障害者補助犬法の施行前、恐る恐る入店を尋ねると「あぁ、新聞で読んだよ。どうぞ」と言ってくれた岐阜県内の飲食店主のことが忘れられない。

 あの喜びを、今度は自分が伝える側として、見落とされている社会の問題に光を当てられるような記事を書きたい。その道に向かって、アトムとともに歩んでいきたい。(おわり)

(2007年11月3日 読売新聞)

続きは・・・http://www.yomiuri.co.jp/feature/atom/fe_at_07110301.htm

アトムと私 シリーズ

(14)車いす取材 人の力に
    仕事ほめられ 感じた誇り

新人の同僚記者2人が、事件や事故の取材に奔走する中で、私は自分のすべきことが分からないでいた。

 「どういう取材方法がいいのだろう」。名古屋市の中警察署で別の新聞社のベテラン記者に何気なく話すと「この間、読売にいい記事が載っていたよ。あんなのを書けばいいやん」。

 落語に魅せられた知的障害のある青年が、テープやCDを聞いて覚えた落語をイベントで披露するという話題だ。私が書いた記事だった。ヘルパーの女性から「イベントのビラが張ってあった」と聞いたのがきっかけで取材した。ベテラン記者にほめられたようで、うれしかった。

 入社後わずか半年だが、様々な人に出会った。

 全身の筋力が徐々に衰える難病、筋委縮性側索硬化症(ALS)の患者が、新薬の健康保険適用を求める署名活動をするという。「事前に記事にしてみないか」と上司のアドバイスを受けたが、病気のことも新薬の効能も保険適用の制度も分からない。

 取材窓口の小早川尚子さん(49)(名古屋市)に連絡を取り、生活のことなどを尋ねた。小早川さんは握力が3キロ程度で、立ち上がることも難しいというのに、親切に対応してくれた。それでも「取材が足りない」と上司から言われ、別の患者や新薬の有効性を研究している医師、製薬会社の取材を重ね、記事を書き上げた。
 後で知った話だが、小早川さんは、私が新聞記者になったことを紹介したテレビ番組を見て、社会部に取材を依頼してくれたという。「同じ車いすに乗っている人間として、私たちの苦しみをくみ取ってもらえるのではないかと思って」と小早川さん。

 後日、届いた手紙には〈メディアの力は大きいです。そのメディアがマイノリティー(少数派)の味方であることを大変うれしく存じます。命ある限り、チッポケな私たちの出来ることをやっていきたいと思います〉と書かれていた。

 小早川さんたちの思いを、どれほどの人に伝えられたのかは分からない。しかし、伝えなければいけない仕事に就いているんだ、と改めて思った。

 先日もうれしい話を聞いた。愛知県内にある障害者の職業訓練所を取材で訪れた時、私の姿を見た精神障害のある21歳の女性が「障害があってもできることがあるんだ」と、喫茶店で働き始めたという。

 「あなたのできることは、記事を通して何かを伝えるだけにとどまらない。人と出会う機会の多い、いい仕事を見つけたね」。連絡してくれた訓練所の指導員はこう言ってくれた。仕事への誇りを感じた。

(2007年11月2日 読売新聞)

続きは・・・http://www.blogger.com/post-create.g?blogID=223945382926403975

アトムと私 シリーズ

13)学校で講演 ご褒美は拍手
   「介助」披露、一生懸命な姿伝わる

大学4年生だった2004年秋、和歌山県内のラーメン店で、アトムも一緒に入ることができるか、友人に聞いてもらったことがある。すぐに店から出てきた友人は「オッケーだって」と、満面に笑みを浮かべた。

 身体障害者補助犬法はすでに施行されていたが、飲食店の壁は厚い。店長に尋ねると「娘の小学校に、介助犬と一緒に暮らす人が講演にきたことがあってね」と説明してくれた。講演内容を娘さんが両親に伝え、その恩恵に私は浴した。

 介助犬との暮らしを理解してもらおうと、私もアトムと生活を始めた直後から、小中学校などで講演をしてきた。読売新聞に入社してからも、車いすに乗るようになって気付いたことなどを話してきた。

 講演ではアトムにも出番がある。車いすの速度に合わせて歩く、落としたボールペンを拾う、車いすを引っ張るなど、日常の介助動作の一部を見てもらう。

 アトムにとってのご褒美はほめられることだ。子どもたちが拍手をしてくれようものなら、うれしくなってしっぽをブルンブルンと振る。気分が乗ってくると、車いすを引っ張るスピードも速くなる。

 今年6月に訪れた岐阜市の市立鷺山小学校では、落とした硬貨をアトムが拾って渡してくれる動作に、5年生の子どもたちがくぎ付けになった。「硬貨の受け渡しに失敗しても、何度も挑戦するアトムの一生懸命さに、子どもたちは感動していたようです」と小川豊子教諭(45)。

 後日、送られてきた手作りの新聞には〈おたがい大切に思うどうしなんだと思いました〉〈車いすの人のできることを増やしてあげたいので、見かけたら手伝いたい〉などと書かれていた。「介助犬を理解してくれた人が、また増えた」とうれしくなった。

 10月4日の岐阜市立城西小学校での講演では、初めて取材の体験談を話した。アトムのいない取材でスロープに苦戦したこと、取材先で段差に泣かされたこと――。社会人1年生の自分が仕事の話をすることには後ろめたさもあったが、上司から「社会人、新聞記者として、どう働いてるかを伝えることにも意味がある」と言われ、思い直した。

 講演後、女児の1人に質問された。「今一番がんばっていることはなんですか」。「仕事を覚えることです」と答えた。

 本当はこの後に「失敗ばかりの毎日だけれど、いつかは、だれかの生活が一歩でも前進するような記事を書きたいと思っている」と付け加えたかったが、気恥ずかしくて言えなかった。

(2007年11月1日 読売新聞)

続きは・・・http://www.yomiuri.co.jp/feature/atom/fe_at_07110101.htm

アトムと私 シリーズ

(12)私にしかできない取材を
    「同期並みに」では焦るだけ

 「中署で窃盗事件の発表だって」

 朝、家を出る時、会社から携帯電話に連絡があった。急きょ、名古屋市中区の愛知県警中署に向かった。

 あと30分もない。タクシーの乗り降りにも時間がかかる。やっとの思いで到着すると、2階の記者クラブは他社の記者でいっぱい。すでにパソコンを開いて原稿を書く準備をしている。私は隅の方でメモを取るのが精いっぱいだった。

 私は両手の握力がまったくなく、指も第2関節から内側に曲がってしまっている。ペンは右手の人さし指と中指の間に挟み、固定する。パソコンのキーボードは右手の薬指1本で打つ。何をするにも時間がかかる。

 発表が終わると、押収した証拠品を6階で撮影できるという。他の記者はさっさと階段を上っていく。

 私がエレベーターを待っていると、撮影を終えた記者が階段から下りてきた。6階で写真を撮り、記事を送信し終えたころには、ほとんどの記者はいなくなっていた。

 夏の高校野球愛知大会の取材では、球場の段差に悩まされた。

 5回戦と準々決勝が行われたナゴヤドーム(名古屋市)は、1997年開業の新しい施設だが、記者席は階段状だった。結局、同僚記者に記者席での取材を頼み、私は車いす用の観客席でスコアをつけ、試合後に選手の話を取材した。
 
 愛知県知事から100歳を祝う表彰を受ける名古屋市の伊藤正雄さんの取材では、玄関前の階段で、長男の秀成さんとタクシーの運転手さんが車いすを持ち上げてくれた。「うちには初めての、車いすに乗るお客さん。何とかしたいと思った」と秀成さんは話した。

 しかし、事件現場ではこうはいかない。

 入社して約1か月後の5月、愛知県長久手町で拳銃を持った男が自宅に立てこもる事件が起きた。同期の新人記者2人は現場に急行したが、私は会社に残った。2人は現場を肌で感じ、生の声を取材できる。「現場に行きたい」という思いと、「行っても仕事ができない」という思いが交錯した。「会社でできることを精いっぱいやろう」と先輩から指示を受け、現場近くの住民に電話をかけて様子を取材した。

 事件が起きるたびに現場を走り回り、経験を積んでいく同期を横目に、気持ちは焦るばかりだ。そんな私の心を見透かしたかのようにある日、上司が言った。

 「同期と同じようにやろうとしたら焦るだけ。じっくり構えて、自分は何ができるかを考え、取材に生かすことが大切だ」

 〈ハンデは承知で選んだ道。自分しかできない仕事をきっと見つけてみせる〉。自分に今一度そう言い聞かせた。

(2007年10月31日 読売新聞)

続きは・・・http://www.yomiuri.co.jp/feature/atom/fe_at_07103101.htm

アトムと私 シリーズ

(11)「愛犬 正社員といたします」
    働きやすい環境づくり

「館林君。事故、障害を乗り越えて、精神的な努力に大変な肉体的な努力もあっただろうが、あなたが入社されたことを読売新聞としても誇りに思っております。その愛犬のアトム君、辞令を用いず、本日、正社員といたします」

 2007年4月2日、読売新聞東京本社の入社式。読売新聞グループ本社の渡辺恒雄会長・主筆のあいさつの最後に、突然、名前を呼ばれて驚いた。私は68人の同期とともに社会人のスタートを切った。

 赴任先は名古屋市の中部支社社会部。支社では私を受け入れるため、緩やかなスロープ、車いすで入れる広さのトイレを設置してくれた。エレベーターには後方確認のための鏡、挟み込み防止センサー、低位置の操作盤も取り付けられた。

 特にトイレ内には、高さ50センチの流しが設けられた。アトム専用のトイレだ。ここにシートを敷くと、アトムは飛び乗って用を足す。車いすと同じ高さだから、私も後片付けをしやすい。アトムは当初、高さに戸惑っていたが、2~3度練習するとすぐに慣れた。

 出勤初日、緊張で顔をこわばらせて席に着くと、先輩記者が「動きやすいように、これでもみんなで整理したんだよ」と話しかけてくれた。車いすで仕事ができるように大ぶりの机を用意し、エレベーターから机への動線を確保するため、掃除をしてくれたのだという。

 社内掲示板には「アトムに触らないで。食べ物を与えないで」という注意書きも張り出された。

 仕事をするには工夫が必要だった。私は電話機を操作することはできるが、手先が不自由なため、薄いコピー用紙などはうまくつかむことができない。そこで、用紙をつかみやすいようにと指サックをもらった。運ぶ際は、車いすの操作で両手が使えないため、用紙はひざの上に載せ、落ちないように携帯電話などを重し代わりに載せた。

 移動に使う介護タクシーは台数が限られているので、突発的な取材などに対応してもらうのが難しい。その中で、タクシー会社「つばめグループあんしんネット21」の守山営業所(名古屋市守山区)は体制を整えてくれた。同営業所は介護部門を担当、所属ドライバー約80人のうち50人はヘルパー2級の有資格者だ。

 「館林さんは、車いすだけでなくアトムもいる。こちらも勝手が分かっていたほうがいいので、慣れている運転手を中心に10人ぐらいで回すようにした」と、同営業所の田中英雄常務(52)。

 会社は働きやすい環境を整えてくれた。後は、私の頑張り次第なのだが、取材現場ではいくつもの壁にぶつかった。

(2007年10月30日 読売新聞)

続きは・・・http://www.yomiuri.co.jp/feature/atom/fe_at_07103001.htm

アトムと私 シリーズ

(10)入社前 ヘルパー探し難航
    「毎夜11時半」に21社が拒否

 マンションの出入り口に段差がない(スロープがあれば可)。共同玄関は自動扉。エレベーターがある。トイレの出入り口は、車いすの幅55センチより広い。アトムの入居が可能。会社に近い。近くに平面駐車場がある――。

 2006年末、読売新聞社の採用が決まり、勤務予定地の名古屋市内で家探しを始めた。自活しようとすると、住まいへの条件は多い。

 不動産業者に何十枚もの見取り図を見せてもらったが、実際に物件を見ようと思ったのは3か所だけ。トイレに段差がなく、間口を少し広げれば入ることができる建物に決め、改装して住むことにした。

 大学入学後、4度目の引っ越しになるが、毎回、住居探しには苦戦する。京都市内ではペット可のマンションを契約後、住民の間で「アトムの大きさが規約外」と問題になり、断られたこともあった。

 勤務にあたってヘルパーも新たに探す必要があった。朝食の用意と身支度の手助け、夕食と入浴の介助もお願いしなければならない。問い合わせた名古屋市中区障害者地域生活支援センターの松本幸子さんが「一つの業者では対応しきれないが、生活を応援したい」と間に立ち、事業所を探してくれた。

 問題は時間だった。新聞社の夜は遅い。「できるだけ遅くまで仕事をしたい」と、午後10時~11時半という条件にした。松本さんは24時間態勢の事業所にも片っ端から電話をかけたが、21社に断られたという。

 松本さんの努力で、最終的に五つの事業所が協力してくれることになった。ヘルパーの都合が悪くなった時は、その中の「菜の花指定居宅介護事業所」が調整役を引き受けてくれた。「女性ヘルパーは、行き帰りの防犯面などから、深夜に定期的に確保することは難しい。松本さんから連絡をもらった時も『毎日なんてまず無理。週のうち何回かなら』と答えるのが精いっぱいだった。だが、働く人を何とか助けたいと思った」と、同事業所管理者の丸山秀樹さんは振り返る。

 会社には、マイカー通勤を認めてもらった。学生時代は車いすをたたんで車内に積んでいたため、乗り降りの際は、家ではヘルパーに、学校では警備員らに手伝ってもらっていた。
 それでは仕事にならないと、車いすを屋根の上につり上げることができる機械を車に取り付けたが、車いすで乗り降りできる自宅近くの広い駐車場はどこもいっぱい。当面は介護タクシーに頼ることになった。

 社会人となるための生活環境すべてを整えられたわけではないが、できる限りのことをして入社に備えた。 

(2007年10月29日 読売新聞)

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アトムと私 シリーズ

(9)空回りした就職活動
   試験での希望 受け入れられず

大学3年生から本格的に就職活動が始まった。新聞社へのあこがれは年々、強くなっていた。

 大学で行われる就職説明会に顔を出し、テレビ局や新聞社のセミナーに出席した。車いすの私とアトムにとっては、駅までの移動、切符の購入、電車の乗降、車内での車いすの位置取り、ホームと改札口との上り下り……など、すべてがちょっとした冒険だ。

 東京に行く時は、インターネットで介護タクシー会社を調べて利用した。「チワワみたいな小ちゃい犬やったらええけど、そんな大っきい犬はなぁ」と以前に乗車を断られたことがあり、乗車拒否をされないか不安だった。説明会場へ向かう途中の橋が階段のために渡れず、遅刻しそうになったこともある。しかし「一人で動けなければ、とても働くことはできない」と、自分を奮い立たせた。

 新聞社に内定した知人を介して、新聞社で働く大学の先輩たちに話を聞いた。挑戦する心意気は買ってもらえたものの、ある先輩からは「あなたにはフットワークというハンデもある」と言われ、落ち込んだ。

 事故で大学入学が同級生より3年遅い私は、受験資格の年齢制限にひっかかることもしばしば。試験では、筆圧が弱いためボールペンの使用、書き直しのための作文用紙と時間延長、介助犬の同伴を希望したが、書き直しの用紙や時間延長の希望は受け入れられないという会社もあった。

 仲間がテレビ局や新聞社に就職を決めていくなか、私は就職先がなかった。自分なりの努力が空回りに終わり、結局、大学院で勉強し直す道を選んだ。

 大学院では、マスコミ希望の学生が作文をお互いに批評しあった。「夢」という課題に「私は18歳のときに、交通事故によって両手両足の自由を失った」「夢では立ち上がって歩いているのに、現実では歩けない」「体の状態の違いにかかわらず、より多くの人が、喜びを享受できる社会をかなえることが将来の夢」と書いた。

 仲間からは「暗い」「重い」とさんざんな批評を受けた。必要以上に車いすの自分にこだわるのはやめようと吹っ切れた。

 大学院では、「アトム日記」を書かせてもらった読売新聞だけを受験した。年齢制限ぎりぎり。新卒受験最後の挑戦で、やっと内定をもらった。
 介助犬との生活について多くの取材を受け、成長を後押しされた。「今度は私が記事を書くことで誰かの役に立ちたい」。意欲がもりもりわいてきた。(館林千賀子)

(2007年10月26日 読売新聞)

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アトムと私 シリーズ

(8)「日記」への反響 励み
   海外から応援/出産報告も

<女満別(めまんべつ)空港(北海道)に降り立つと、藤田扇(おうぎ)さんと介助犬歴10年のマークが出迎えてくれた。アトムとマークは鼻をすり寄せごあいさつ>

 2005年2月20日の読売新聞中部版に掲載された「アトム日記」の一節だ。大学入学から大学院修了までの6年間、毎週日曜日に学生生活を500字ほどでつづり続けた。

 日記のテーマの多くは、電車の移動で悪戦苦闘したことや、学生やアトムに助けられたことなど、ささいな日常の出来事だった。

 公務員の藤田さんとは、介助犬使用者の会のリストを見て、私がメールを出したのがきっかけで知り合った。北海道旅行のアドバイスをしてもらおうと思ったのだが、ついには旅行先で落ち合い、藤田さんの別荘で温泉にも入れてもらった。

 日記はインターネットで公開されたため、国内外から多くの反響があった。

 洗濯機から洗濯物を取り出すのをアトムに手伝ってもらったが、干すのには苦労したことを書いた。すると手に障害がある女性が〈洗濯後、1分弱乾燥機に入れると、しわ伸ばしが不要になる。干す時は、曲げた針金を取りつけた棒を使っている〉とメールで伝授してくれた。

 アメリカ在住の日本人女性からは〈障害を持つ方にとってストレスの多い不便な日本の状況を、皆さんに遠慮せず伝えてください。そうしないと何も変わりません〉と、激励のメールをもらった。介助犬の訓練士になりたいという中学生からは〈訓練士は大変だと思いますが、ますます興味がわきました〉とのメールが届いた。

 顔は見えないが、読んでくれる人がいる。毎週やってくる締め切りはつらかったが、介助犬との生活を伝える機会を大切にしたいと思った。

 私と同じ障害を負った埼玉県の主婦又野亜希子さんから、直筆の手紙をもらったのは05年6月のことだ。埼玉県所沢市の国立身体障害者リハビリテーションセンターで、私のことを看護師さんから聞いたという。

 <04年7月、私も交通事故により、頸髄(けいずい)を損傷しました。結婚2年目の事故。子供が欲しくてこれからというときに……>
 メールのやりとりを始めて半年後、うれしいニュースが入った。〈実は今妊娠しているんです。こんな私でもお母さんと認めて宿ってくれたのかな?〉。06年5月、又野さんは体重2300グラムの女の子を出産した。
 難しいとあきらめたくなることは多いけれど、道が開くこともある。日記を書き続けたことによって、より多くのことを学ぶことができた。

(2007年10月25日 読売新聞)

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アトムと私 シリーズ

(7)補助犬法 効いた
   広がる理解 行動しやすく

「すみません。介助犬も一緒なんですけど、いいですか?」
 アトムと一緒に生活し始めた2000年当時、どの店に入る時も、まずこう切り出さなければならなかった。今では格段に減った。その大きな要因に身体障害者補助犬法がある。
 
 法施行前は、アトムは実家のある岐阜県や、介助犬の訓練施設のあった京都市から介助犬認定証を発行してもらっていたが、認知度も低く、飲食店の入り口で「介助犬って何?」と聞き返されることが多かった。

 電車や地下鉄など、さまざまな施設で試験を受け、許可をもらう必要があった。電車の乗車試験では、物音や、目の前でちらつかせた食べ物に反応しないかなど、犬の本能を刺激するような試験が行われ、それに耐えた。アトムが背負うかばんの中には、公共機関ごとに発行してもらった証明書が何枚も入っていた。

 それが、法律施行後は認定証が1枚のカードにかわった。ただ、施行翌日から物事が変わるわけではない。

 岐阜県内の喫茶店で、店員から「どうぞ」と言ってもらったものの、先客に「犬と一緒では」と断られ、あきらめたこともある。それでも次第に輪は広がった。

 知人が先生をしていた滋賀県野洲市立中主(ちゅうず)小学校では、担任していた3年生の5人が、総合的な学習の時間で、補助犬をテーマに選んだ。

 先生から介助犬の話を聞いた児童らが、自分の住む街を調査すると、補助犬同伴許可のステッカーが張ってある店より、ない店の方がずっと多いことに気づいた。郵便局、文房具店、薬局、銀行などに呼びかけ、9店舗にステッカーを配ってくれた。

 「最初は(協力を呼びかけるのに)すごくドキドキしました。自分たちの気持ちもしっかり伝えて、張ってもらえました」。後日、こんなかわいらしい作文が届いた。

 学生時代によく行っていた喫茶店(京都府京田辺市)のオーナー田宮正康さんは「法律ができたことで、介助犬が一緒に入店することを客に説明しやすくなった」と話す。

 じわじわと補助犬への理解が浸透しているという実感があった。家から出て移動することが怖かった私も、一歩一歩、法律の後押しで行動範囲を広げることができた。(館林千賀子)

身体障害者補助犬法
 盲導犬、聴導犬、介助犬を同伴した障害者の受け入れを定めた法律で、2002年10月施行。公共施設や交通機関で同伴を拒んではならないとされ、03年10月からは、ホテルやレストラン、デパートなど不特定多数の人が利用する民間施設でも受け入れを義務づけた。
(2007年10月24日 読売新聞)

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アトムと私 シリーズ

(6)母と離れ一人暮らし
   食事、入浴ヘルパーが支援

 同志社大学に入学後、私は母とアトムと京都府京田辺市の一軒家で暮らし、父と大学生の弟は、岐阜の実家で2人で生活していた。美容師の母は、指を骨折してもハサミを握るほどだったが、事故後は美容院を閉めていた。

 学生生活に慣れてくると、母と一緒の生活から卒業したいと思うようになった。「自立するとともに、母にも仕事に戻ってもらいたい」との思いが募った。

 大学3年から、京都市の今出川キャンパスでの講義が中心になる。京都市内に引っ越すことになり、思い切って、一人暮らしを切り出した。

 「車いすから落ち、アトムが電話を運んでくれたって誰を呼ぶの?」「包丁も握れないのに、どうやってご飯を作るの?」「お風呂は?」「友達を呼んでも、いつでも来てくれるもんじゃないよ」。母の反対は当然だった。

 2年の冬休みに実家へ帰省した時、活路が開かれた。親交のあった頸髄(けいずい)損傷者連絡会岐阜の上村数洋(うえむらかずひろ)会長(当時)の奥さんが、障害者本人が福祉サービスを選ぶ支援費制度が4月から始まる、と教えてくれた。

 京都市で自立生活相談に乗っている障害者地域生活支援センター「きらリンク」に行き、市内の訪問介護事業者一覧表をもらった。順番に電話をかけ、2事業者から承諾を得ることができた。
 「朝夕決まった時間にヘルパーさんが来て手伝ってくれる。口があるから説明やお願いはできる。大丈夫だから」

 ヘルパー制度と1週間の予定を母に伝えると、納得してくれ、母自身も美容院の再開を考え始めた。
 マンションで母と別れて生活を始めたのは、3年の秋。ほぼ毎日、朝夕にヘルパーが来てくれ、食事や入浴の介助をしてくれた。戸締まり、火の元を何重にもチェックし、携帯電話を枕元に置いた。「何かあった時のために」と、同じ大学に通う友人の池田かおりさん(25)には鍵を預かってもらった。

 「一緒に太巻きずしを作った時、手先が不自由だと料理も大変なんだと改めて知った。ヘルパーがいる間はいいけれど、いない間はアトムだけで大丈夫だろうかと心配だった」と池田さん。

 障害者仕様の車を運転して通学した。運転免許は事故後、20歳で取った。アクセルとブレーキのレバーを左手で操作し、ハンドルは右手にベルトで固定して運転する。最初は心配してキューキューと鳴いたアトムも、次第に私の運転でも寝るようになった。
 少しずつだが、自分の生活が組み立てられるようになった。

支援費制度
 行政が決めていた福祉サービスの種類や提供事業者を、障害者本人が選べるようにした制度。障害者はかかった費用のうち、支払い能力に応じた自己負担分を支払い、残りは市町村が「支援費」として事業者に支払う。2003年4月から始まった。06年4月には障害者自立支援法が施行され、国と都道府県にも負担が義務づけられた一方、障害者も原則1割の自己負担が求められるようになった。

(2007年10月23日 読売新聞)

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アトムと私 シリーズ

(5)広い大学 移動に大汗
   アルバイト 母付き添いで
 
京都府京田辺市の丘の上にある同志社大学キャンパスで2001年4月、アトムと私の大学生活がスタートした。介助犬を伴う大学生は私が第一号だった。
 
 敷地は約80万平方メートルもある。授業を受ける建物は限られるとはいえ、私にとっては移動距離が長く「15分の休み時間に一人で教室を移動できるだろうか」と、不安でいっぱいだった。
 講義が終わる前からノートを片付け、移動に備えた。扉はドアノブタイプで、私もアトムも歯が立たない。出ていく学生に開けたままにしてもらうよう声をかけた。

 学内では、いろいろな場面で助けられた。エレベーターのボタンを押してもらったり、坂道で車いすを押してもらったり。小雨の中をぬれながら移動していると、通りがかったOBが傘を差しかけてくれたこともあった。

 大学の配慮もありがたかった。車いす用の机を用意し、試験のときは途中退出する学生にアトムが反応しないように別室で受けさせてくれた。食堂なども含め、アトムと私が入ることができない場所はなかった。

 学内は過ごしやすい場所だったが、必修の週1回の体育は大変だった。けがや内臓疾患などで、通常の体育を受講できない学生向けの講義を受けた。手にラケットをくくりつけてのバドミントンや、パターゴルフなどに挑戦した。

 最大の難関は、体育館への移動だった。約500メートルの坂道を上り続けなければならず、段差もある。これは学内ボランティアとして登録している学生に介助をお願いした。
 アトムは、体育の時間こそ介助犬と書かれたかばんを外し、芝生を走り回っていたが、それ以外はほとんど「待機」の状態。語学の講義で一緒だった友人の太田裕子さん(25)は「授業中、アトムはじっとして動かない。授業は1日に3~4時限(1時限は90分)もある。よく頑張っているなあ」と感心していた。
 
アルバイトもした。福祉に携わる人々に話を聞くラジオ番組に十数回出演した。収録場所は大阪。当初は一人で電車やタクシーを乗り継ぐのが不安で、一緒に借家暮らしをしている母に付き添ってもらった。
 「せっかくアトムもいるのにもったいないやん。はよ、お母ちゃんなしで、京都から大阪ぐらいきぃさ(来なさい)」。同じ番組に出ている車いすの先輩に、こう言われた。

 このままではいけない。社会に適応するために「自立しなければ」との思いが強まっていった。

(2007年10月20日 読売新聞)

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2007年11月17日土曜日

アトムと私 シリーズ

(4)犬がいれば大学通える
   出会いが進路も決めた

障害を持つ男性が運転する車の窓から犬が首を出し、駐車場の発券機から券を取っていた。兵庫県宝塚市のコンピュータープログラマー、木村佳友(よしとも)さんと介助犬シンシアを紹介する雑誌に、目がくぎ付けになった。1999年秋、埼玉県所沢市の国立身体障害者リハビリテーションセンターを退院して、約半年後のことだ。

 「あんな犬がいれば、私も外出できるのではないか。大学生活も可能じゃないか」

 居ても立ってもいられなくなり、インターネットで探すと、京都市に訓練中の介助犬がいることを知った。両親に頼んで訪れると、アトムは、訓練士・木村有希(ゆき)さんが操作する車いすの横にぴったりと寄り添っていた。ビー玉のような目をしていた。

 「かわいい」。一目ぼれだった。

 しかし、当時は介助犬の育成が始まったばかりで、多くの希望者が順番を待っていた。あきらめかけていた2000年3月、訓練所から「アトムとの相性テストを受けてみないか」という電話が入った。テストの結果、運良くパートナーに選ばれた。
 
 その理由を木村さんは「あなたがアトムの名前を呼んだとき、頭を上げて向かって行く姿を見て、大丈夫だと思った。呼ぶ声が必死だったこともあるかもしれませんが……」と話す。

 実際にアトムに認めてもらうには時間がかかった。アトムのパートナーはあくまで訓練士。私が綱を持っても目はいつも訓練士を追っていた。

 週に3~4回、岐阜県の実家から京都市に通った。アトムに会いたい一心で、電車にも初めて一人で乗った。訓練士の指示がなくても、投げたボールを私のところへ運んでくるようになるまで1か月かかった。そして5月、全国で14頭目の介助犬アトムと私との共同生活が実家で始まった。

 ペンを落とせば拾ってくれる。暑ければ袖を引っ張って服を脱がしてくれる。ひもを付けた吸盤をガラス戸にくっつけると、戸も開けてくれる。

 高校の友人はほとんどが進学する。事故で一時は進学をあきらめかけていたが、アトムがいれば大学生活もできるのではと、意欲がわいた。

 この年の秋、面接などで選抜するAO入試で同志社大学新聞学専攻を受験した。新聞学を選んだのも、アトムがきっかけだ。

 岐阜県初の介助犬として新聞に取り上げられた。それまでは、どこへ行くにも介助犬を説明する必要があったが、ある日、飲食店を訪れると「新聞で読んだよ。介助犬ね。はいどうぞ」とすんなり入れてもらうことができた。

 マスコミを通じて理解が広がることを実感した。マスコミについて勉強してみたいと思った。この体験が新聞記者を目指す原点となった。

(2007年10月19日 読売新聞

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アトムと私 シリーズ

(3)待ってくれてる人がいる
  事故、リハビリ…克服する力に

1998年1月3日、高校2年生の時、私の人生は大きく変わった。冬休みに名古屋のデパートに買い物にいった夜だった。

 私はワゴン車運転席の後ろに座っていた。交差点に差しかかった時、信号を見落とした車が向かってきた。「あっ、ぶつかる」。その瞬間、記憶は途絶えた。

 「窓ガラスを突き破って飛んでったらしいよ。でも落ちた所に花のプランターが置いてあって、即死を免れたんやって」。事故から2か月が過ぎたころ、母が教えてくれた。

 首と腰を骨折し、両手の握力と足の自由を失っていた。「歩くのは難しい」。母の口からそう聞いた時、「死んでしまった方が楽だったんじゃないか」と思った。助かったことを素直に喜べなかった。

 皆と一緒に走れない。バスや電車にどう乗るのか。教室までの階段は上がれない。ノートが取れない。
 
 当たり前の動作すべてが不可能になってしまったように思え、病室から出るのが怖かった。

 そんな時に支えになったのは、「学校で待ってるから」という友人の一言だ。

 友人は当時のことを「どう言葉をかければいいのか思いつかなかったが、会って何かしら元気づけたくて、病室に向かった」と振り返った。

 待ってくれる人がいる。帰る場所がある。事故から3か月ほどが過ぎ、漠然と車いすでの生活を思い描くようになった。

 9月に愛知県の病院から埼玉県所沢市にある国立身体障害者リハビリテーションセンターに転院した。

 最初はベッドの上で寝ころびながらズボンを履くのに、30分以上かかった。自分の足を手で持ち上げてズボンに入れ、左右に転がりながらズボンを引っ張りあげる。ベッドから車いすへの乗り移り、歯磨き、スプーンとフォークの食事――。どれも事故前の3倍以上の時間を要する。幼稚園児のころにできていた動作ができない。情けなかった。

 リハビリを投げ出しそうになっては、周囲に励まされた。小学生の子どもに弁当を作ってやりたいと、片方の腕を失った主婦が調理の練習に励む姿を見て、「ふてくされている場合じゃない」と気持ちを持ち直した。階段から落ちて首の骨を折った60歳代の女性は、自由が利かない手で5分もかけて、袋から取り出したあめを私に渡してくれた。
 「病室から出ることさえ嫌がった娘が、入院仲間と外へ出ていくようになった。仲間の力は大きいと感じた」と母は話す。

 身の回りのことができるようになり、退院するまで8か月。事故から1年4か月が過ぎていた。

(2007年10月18日 読売新聞)

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アトムと私シリーズ

(2)撮影 アングルとの闘い

   「人に頼むのも技術」学んだ

誰もいない舞台にデジタルカメラを向け、シャッターを切ってみた。9月19日に開かれた秋の交通安全キャンペーンを取材するため、名古屋駅前の特設舞台に30分前から詰めた。

 タレントのくまきりあさ美さんが一日署長を務め、オープンカーでパレードする。介助犬のアトムと一緒に人ごみの中に入ると、アトムが踏まれるなどの危険があるため、会社に待機させ、一人で取材に来た。

 車いすの私にとって、問題は写真だった。車いすに座った私の背丈は、1メートル30に満たない。聴衆の後ろにいては、人のお尻しか撮影できない。何度もカメラを構えた結果、舞台の上手側に陣取った。

 マイクの前に、くまきりさんが立った。カメラを向けたが、アングルが低く、たすきの「一日署長」の字が見えない。舞台の反対側に回っている間にあいさつは終わってしまった。

 「まずい」。パレードと一緒の移動は難しいため、500メートルほど先のゴール近くで待機した。くまきりさんが車から降りると、人が押し寄せ、近付くことができない。カメラを構えても、くまきりさんの帽子がちらりと見えるだけ。何とか前へ行こうとしていると、「写真撮りたいんでしょう。押してあげようか」と後ろから声がかかった。

 通りがかりの女性らしい。その声で、くまきりさんの隣にいた中村署長の梶浦正俊さんが気付き、場所を空けてくれた。

 しかし、すぐに撮影、とはいかない。指が自由に動かないので、右手でカメラを支え、左手の手のひらでシャッターを押す。近すぎるし、低すぎる気がしたが、それ以上は動けなかった。

 カメラは厚さ3センチの手のひらサイズだ。支社写真課の中根新太郎課長が入社時、「一眼レフだと重いので小さい方がいい。でもその持ち方だと、薄すぎても、ダメだ」と探してくれた。さらに、シャッターボタンの上にシリコーンのシールを張り、押しやすいようにしてもらった。

 アイススケート教室の取材では、柵をまたいでリンク内に入ったテレビカメラマンが、着ぐるみのキャラクターと見学者の表情を撮影していたが、私は移動できず悔しい思いをした。

 ぶれたりピントが合っていなかったりで、撮り直しも何度か経験した。上司からは「自分で撮れないと思ったら、人に頼めばいい。頼む技術も磨いて」と言われた。

 ハンデは承知のはずだが、カメラとの悪戦苦闘は続く。へこたれることなく、「記事を書くことで誰かの役に立ちたい」と思った初心を忘れずに、少しずつ前に進んでいきたい。 

(2007年10月17日 読売新聞)

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アトムと私 シリーズ

(1)介助犬と懸命に取材

 念願の記者生活スタート

「アトム、テークチェア(車いす引っ張って)」

 5月7日、中村警察署(名古屋市)で、しばらく途方に暮れていた。横にいた介助犬アトム(ラブラドールレトリバーの雄・8歳)に声をかけると、アトムは車いすの左前にくくりつけてあるバンダナをくわえた。約23メートルのスロープをぐいぐい引っ張り上げ、ついに上りきった。「ナイス・ボーイ(よくやった)」。またもやアトムに助けられた。

 私、館林千賀子(28)は今年4月に読売新聞に採用され、中部支社社会部に配属された。障害者の身の回りの世話をする介助犬を伴った車いす記者は、私が第一号だ。事件事故や様々な社会事象を最前線で追いかける警察署回りになった。

 アトムに助けられたのは、交通安全広報部隊の出発式の取材でだった。

 中村署の玄関から道路に下りるには、13段の階段かスロープを通らなければならない。白バイ6台が出発する様子を、道路に下りて撮影しようとまごまごしていると、副署長の脇田泰嗣さんが「スロープは大丈夫?」と声をかけてきて、下まで車いすを押してくれた。
記者クラブのドアに付けてもらったロープを引っ張るアトム(中村署で)

 戻りも心配する脇田さんに「大丈夫」を連発したものの、取材を終えてはたと考え込んだ。「どうやって署に戻ろうか」。2階の記者室には、荷物を置いたままなのだ。

 スロープの幅は1メートル20しかなく、車いすは幅55センチ。アトムは車いすの横に並んで引っ張るので「横幅の狭いスロープの上りは難しいだろう」とあきらめ、これまでは人に頼んで車いすを押してもらっていた。

 だが思い切ってアトムに指示してみると、アトムは自分の体を半歩前に出し、途中で一息つきながらも、引き上げてくれたのだった。

 私は手も不自由なので、ドアノブが回せない。一人では記者室に入ることも出ることもできないのだ。

 入社間もない4月のことだった。広報の窓口になる堀井悦雄警部補が「記者室は大丈夫?」と一緒に見にきてくれた。「アトムがドアを引っ張れればいいんやろ。よっしゃ」。堀井さんは、ドアの側面から飛び出す金具をテープで留め、アトムが口でドアを引っ張れるように、ドアノブにタオルをくくりつけてくれた。

 署長の梶浦正俊さんもスロープ入り口の自転車を整理し、エレベーターに乗り合わせた時は、ボタンを押すよう署員に指示をしてくれた。

 アトムは会社でも私のピンチを救ってくれた。

 私を受け入れるため、全面改装してもらったトイレ内で、車いすから落ちてしまった。自力では車いすに戻れない。携帯電話で助けを求めたが、トイレには内から鍵をかけ、外からは開けることもできない。

 「アトム、オープン」。アトムは前脚で懸命に鍵を押し上げ、ついに鍵を開けたのだった。
 アトムはもちろん、周囲の様々な人たちに助けられながら、私は社会生活をスタートさせた。

 高校2年生だった1998年1月、館林記者は名古屋市内で交通事故に遭い、頸椎(けいつい)損傷で車いすの生活となった。アトムと出会い、生きる望みを得た彼女は、新聞記者を志した。これは、アトムとともに懸命に社会生活を送る新人記者の物語である。

(2007年10月16日 読売新聞)

続きは・・・http://www.yomiuri.co.jp/feature/atom/fe_at_07101601.htm

福祉が心つないだ 奇跡の時振り返る 「抱きしめてBIWAKO」20年

重症心身障害者施設の移転費用を工面するために行われた「抱きしめてBIWAKO」から20周年を記念し、大津市のびわ湖ホールで7日、リレートークが行われた。パネリストが取り組みを振り返りながら、福祉への住民の参加と、命の尊さを訴えた。
 1987年の「抱きしめてBIWAKO」は、琵琶湖岸に全国から26万人が集い、手をつなぎ合った。参加者から集まった収益金は重症心身障害児施設の「第一びわこ学園」(現「びわこ学園医療福祉センター草津」)の新築移転費用の一部として寄付された。

11月7日付(京都新聞より)

続きは・・・・http://kyoto-np.jp/article.php?mid=P2007110700175&genre=O1&area=S00

2007年11月14日水曜日

福祉機器3セット、市に寄贈 近江八幡商議所女性会

滋賀県近江八幡市の近江八幡商工会議所女性会が13日、8月の「八幡てんびんまつり」のチャリティーバザー収益の一部で購入した福祉機器3セットを市に寄贈した。
 贈ったのは、無線振動・光・双方向呼び出し機。市役所や銀行などの窓口で、職員らが視覚や聴覚に障害のある人に光と音、振動で順番を知らせ、障害のある人が職員を呼ぶこともできる。
 同女性会の随井佳子会長(70)が冨士谷英正市長に目録を手渡し、冨士谷市長は「ありがとうございます。大事に使わせていただきます」と受け取った。

2007年11月13日(火)付(京都新聞)

続きは・・・・http://kyoto-np.jp/article.php?mid=P2007111300141&genre=K1&area=S00

2007年11月12日月曜日

自立の楽しみや苦労語る 京都聖カタリナ高、脳性まひの男性が講演

大阪府豊中市で、地域で自立した生活を送る重度障害者の井上康さん(47)が9日、京都府南丹市園部町美園町の京都聖カタリナ高で講演した。介護福祉士やホームヘルパーを目指す生徒たちに、自立に伴う楽しみや苦労、障害者施策の貧弱さを、ユーモアあふれる語り口で話した。

京都新聞

続きは・・・http://kyoto-np.jp/article.php?mid=P2007110900221&genre=F1&area=K40

2007年11月9日金曜日

「感染の恐れ」も移動制限 新型インフルで厚労省検討

厚生労働省は11月2日、新型インフルエンザが発生した場合の国内対策を強化するため、感染症法と検疫法を改正する方針を明らかにした。具体的には、患者や感染者だけでなく「感染した恐れがある人」に対する移動制限などを検討している。

同日の厚生科学審議会感染症分科会で表明。同分科会での議論を経て、来年の通常国会に改正案を提出する。

(京都新聞より抜粋)

続きは・・・http://kyoto-np.jp/article.php?mid=P2007110200170&genre=O1&area=Z10&mp

2007年11月7日水曜日

滋賀県において介護現場の職員数が確保できない現状が現れてきたという

滋賀県内の福祉や介護の現場が人手不足であえいでいるという。景気が回復基調にある中、国の介護報酬の改定で介護現場では職員の給与をどうしても抑えなければならず、人材が給与水準の高い他業種に流れているという。滋賀県内の福祉関連団体は危機感を強め「このままでは先細りになる」と、現状打開のため、を模索しているという。
草津市笠山にある、福祉関連の仕事を仲介している「県福祉人材・研修センター」によると、〇六年の求職登録者数は千六百九十六人と、二年前と比べて、七百三十九人減った。その一方で、求人登録は、二百五十人増え、〇六年は二千三百六十六人。本年も求人数が求職者を上回る状況が続いている。
関係者によると、「好景気を背景に、福祉系の大学生も大半は、給与水準の高い民間企業に流れる。不足分をパート職員で補っても、夜勤は職員がしなくてはならない。このため、激務が重なり、辞めていくという悪循環になっている」と人手不足の背景を説明する。
滋賀労働局の統計によると、〇六年度平均の全職種の有効求人倍率は1.21。介護関連職種に限定した有効求人倍率は1.82と高く、パートは全職種の平均1.39に対し、2.68と異様に高くなっている
県内のある老人介護施設の施設長は嘆く。求人広告を出しても全く反応がないという


   続きは・・・・http://komono.i-yoshida.com/2007/09/post_77.html

福祉協会ってこんなところ

滋賀県身体障害者福祉協会は、滋賀県草津市南笠町深谷63番地の県立障害者福祉センター内に事務所を置き、県内15の各支部が地域交流・県内各地への要望活動に日夜励んでいます。また各身体障害者団体の取りまとめ役としての障害種別の壁を超えた活動を通して、障害者同志の協力と健常者への理解を深めていこうと頑張っています。
それでは、協会が特に力を入れて取り組んでいる主な事業をご紹介しましょう。

http://www.normanet.ne.jp/~ww103720/index.html

2007年11月6日火曜日

心臓難病の穂香ちゃんに募金を近江八幡市の父と支援者ら呼び掛け

難病の拡張型心筋症の治療のためドイツで心臓移植手術を目指す福本穂香(ほのか)ちゃん(1歳2カ月)=近江八幡市=の父祐司さん(28)や支援者らが5日、滋賀県庁で会見し、高額な手術費などをまかなう募金への支援を呼び掛けた。
 穂香ちゃんは2月に拡張型心筋症と診断され、24時間の酸素吸入と薬剤投与を受けている。主治医によると、現在は小康状態だが、風邪など感染症にかかると命の危険があるという。体重は約6000グラムで、同じ年頃の子どもの3分の2程度のため、「発育にも大事な時期なので、できれば半年以内に移植手術を受けてほしい」としている。

2007年11月 5日(京都新聞)

続きは・・・ http://kyoto-np.jp/article.php?mid=P2007110500141&genre=K1&area=S00&mp

2007年11月3日土曜日

コムスンの訪問介護事業、41都道県で移行

不正発覚をきっかけに介護事業から全面撤退するコムスンの大部分の事業が1日、譲渡先の介護事業者に移され、延べ約5万2000人の利用者が引き継がれた。地域ごとに分割譲渡される訪問介護事業は、41都道県を14法人が継承した。コムスンや譲渡先は「円滑な移行」を強調しているが、ヘルパーらの人手不足からサービスの維持が困難な地域も出ているようだ。
 1日移行されたのは41都道県の訪問介護サービスと、全国の有料老人ホームなどの住宅系サービス。訪問介護のうち大阪や福岡など6府県は、12月1日に移行予定だ。
 13都道県を引き継いだジャパンケアサービスでは、受け皿会社の対馬徳昭社長が1日午前、東京都港区で開いた発足式で約40人の社員を前にあいさつ。「法令順守に力を入れ、利用者にとって存在意義のある会社にしていきたい」と呼びかけた。

2007年11月01日付 (朝日新聞)

続きは・・・・ http://www.asahi.com/health/news/TKY200711010104.html

2007年11月1日木曜日

高齢者医療負担増、「半年凍結、次の半年2割」 自民案

高齢者の医療費負担増の凍結問題で、自民党は22日、来年4月に予定されている75歳以上の約200万人からの新たな保険料徴収について、「凍結期間は半年とし、次の半年(08年10月~09年3月)は本来の額の2割だけを負担してもらう」との案を公明党に示した。
 与党プロジェクトチーム(PT)では、凍結期間を半年とすることで調整していたが、公明党から「9カ月に延ばすべきだ」との意見が出ていた。このため自民が、「半年凍結」の方針を維持しながら、追加の負担減を盛り込んだ妥協案を提示した。


2007年10月23日 (朝日新聞)

続きは・・・・・ http://www.asahi.com/health/news/TKY200710220343.html

パリコレ飾った柿渋染めの技発信 高島の染織家が「玄匠ブランド」

パリコレクションでデザイナー三宅一生の婦人服の服地に採用されたことでも知られる滋賀県高島市安曇川町在住の「柿渋手描き染め」の染織家山本玄匠(げんしょう)さん(68)が、これまでの販売会社を通じての流通をやめ、自身の山本工房から「玄匠ブランド」として、婦人服や洋服、シャツ、ジーンズ、のれんなどの販売を始めた。11月3、4の両日に同市今津町今津の「米澤邸」で「四季に想う」と題して作品約200点を展示する。

続きは・・・
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2007103100030&genre=K1&area=S20

2007年10月31日 京都新聞電子版より

福祉作業所20周年を記念 現代国際巨匠絵画展始まる 豊北町で29日まで チャリティー資金に

今月1日から始まった赤い羽根共同募金のイベントとしても企画。作品は展示即売しており、入場無料。会場入り口に募金箱を置き、チャリティー資金に充てる。 会場にはシャガールやピカソ、東山魁夷など東西を代表する作家の版画や、印象派の影響を受けた作品を制作しているフランスの画家トロッジェさんとシルヴィアンヌさん夫婦の油彩など約60人の270点を展示。2号から50号までの作品は、いずれも明るいタッチのものが多く、来場者の目を楽しませている。


2007/10/28付 西日本新聞朝刊=


http://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/yamaguchi/20071028/20071028_001.shtml


高校生の福祉機器アイデアコンテスト 春日丘の高木さんら最優秀

 高校生対象の「福祉機器アイデアコンテスト」(中日新聞社など後援)の表彰式が二十七日、半田市東生見町の日本福祉大半田キャンパスであった。テーマを決めた特定課題の部は春日丘高(春日井市)三年の高木沙苗さん(18)、自由課題の部は日本福祉大付属高(美浜町)三年の田宮恭之さん(18)がそれぞれ最優秀賞に輝いた。

2007年10月28日    (中日新聞にて)


http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20071028/CK2007102802059824.html