2008年8月16日土曜日

第26回目「心に残る医療」体験記コンクール作品集

 第26回目の「心に残る医療」体験記コンクールの表彰式が、1月31日、都内で開催されていました。
 今回の体験記コンクールには、1,634編にもおよぶ体験記が寄せられました。たくさんのご応募ありがとうございました。
 表彰式では、3次にわたる厳正なる審査を経て選出された、厚生労働大臣賞、日本医師会賞、読売新聞社賞、アフラック賞の4編と入選7編が、小学生の部では、最優秀賞、優秀賞2編、佳作2編が顕彰を受けました。また、当日の読売新聞朝刊では、これらの作品が大きく掲載されました。
 下記に入賞作品を掲載しています。どうぞご覧ください。 
作品の一部を紹介します。

一般の部<入選>
「車椅子を押してくれた医師」 岩井川 皓二(65歳)秋田県湯沢市・農業
 朝、食事の最中に父は胸の辺りが苦しいと言い出した。余程のことがない限り自分から体調不良を訴えることのない人であったから、私は妻に手伝ってもらい急いで病院に連れて行った。父が九十六歳の時のことである。
 病院に着くと、診察にあたった医師はすぐに入院するように言い、その手続きの説明にきた看護師は「高齢ですから、もしかすると状況が理解できなくなるかも知れません」と、付け加えて言った。
 初めて聞く話ではなかった。私の周囲にも実際、そのような人が何人かいた。目や胃腸の手術を受け、快癒して退院したが、頭の方がおかしくなってきた、痴呆状態になってきたという話で、みな八十歳代のご高齢者であった。私の父の場合は更に高齢で、この時九十六歳になっていた。しかし、妻は即座に「うちのじいちゃんは大丈夫だと思います」と看護師に断定的な言い方をした。私も口には出さなかったが、妻の言う通りだと思った。
 それまで父は、自分のことは全て自分でやっていたのである。短時間であったが、山裾の畑に出掛けて行き仕事もしていた。惚けないためだと言って本を読んだり、何か文章を書いたりもしていたのである。
 しかし、看護師の言った通り、入院したその夜から父は錯乱した。点滴の針を抜いて血塗れになり、脱糞してシーツを汚した。付き添っていた私は思わぬ事態に狼狽し、隣室のナースセンターからその度に駆けつけて、嫌な顔一つしないでテキパキ処置をしてくれる看護師たちに詫びを言った。しかし、彼女たちは「これは私たちの仕事ですから気にしないで下さいね。それより家族の方が傍にいて、声をかけてあげることが今のおじいちゃんには何よりのクスリですから、忙しいでしょうけれど、お願いしますね」と言って事も無げに血に濡れ、糞に濡れたシーツを取り替えてくれた。
 父の病気は心筋梗塞であった。担当医師は「いつ何があってもおかしくない程、おじいさんの心筋は壊死しています」と写真を見せて丁寧に説明し、父のようすを見るため頻繁に病室へ顔を出した。父は結局この病気で亡くなったのだが、私は後にも先にもあれ程、高齢の患者の命を重く、大事に扱ってくれた例を知らない。
 私の母は父より数年早く逝っているが、死因は進行性の胃癌で、七十七歳の時一度手術を受けている。その時手術台の母は、麻酔がきいて眠りに沈む寸前、医師たちの会話を聞いていた。「年寄りだからここに臨むまでは適当でいいような気持ちだったが、いざ執刀することになると、そういう訳にはいかないな」という意味の話をしていたと術後に母は苦笑しながら言っていた。父の場合はそのようなものではなく、医師も看護師も初めから高齢の患者に対する理念が明確で、徹底していたように思う。
 父の病状は暫くすると落ちついてきたが、意識の方はその日によって、はっきりしたり訳が分からなくなったりしていた。夜中にオムツを着けただけの姿で廊下に這い出したり、私の顔を見ても誰なのか判断のつかない時があった。
 ――ある日、私が夜中に病院へ行ってみると、担当医師が父を車椅子に乗せて廊下を渡って来るのに出会った。「どうしたのですか」と、驚いて聞くと「だいぶ落ちついていますので、二人で散歩をしています。なあ、○○さん」と、医師は父の名前を呼んで目を細くした。この時は父も正気で、無言のまま首を縦にふった。「看護師たちにもお願いをしていますが、私は時間があれば時々こうしているのです。これからはますます入院患者の高齢化が進みます。ただ単に病気を治すだけでなく、高齢の患者が精神的に混乱をきたさないための病院のあり方、ケアのあり方がいよいよ大事になってきます。こうして散歩しながら二人でその事を考えていたのです。なあ、○○さん」と、医師はまた父の名を呼んだ。父は医師のこの話の意味をどこまで分かっていたのか、今度もだまって頷いた。そして顔を上げると、私を見て「こんな夜中にどうしたのだ」とはっきり聞いた。
 私はこの時の医師と交わした言葉を、今でも鮮明に覚えている。「時々『尊厳死』ということが話題にのぼります」と、医師は言った。「――しかし、人間の尊厳が問われているのは、患者や高齢者だけではありません。私は自分自身の尊厳が問われているのだといつも思っています。相手が誰でも、命を守るために全力を尽くす、そこにこそ自分の尊厳があると思っています」
 ――この医師は間もなく、他県の病院へ異動してしまったが、私はこの地方唯一の総合病院に彼の思いと理念が脈々と受け継がれていくことを心から願っている。

小学生の部<優秀賞>
「兄ちゃん」 成沢 希望(10歳)千葉県印西市・小学4年
 
これは兄ちゃんの話だ。
 生まれるとすぐ大きな病気にかかり、兄ちゃんの足はよく動かない。毎日両手に杖をついて学校に通っている。兄ちゃんとぼくは年が十一才もはなれているが、兄ちゃんは勉強の合間を見つけてよく遊んでくれる。家族はそんな兄ちゃんのために、長野の家をはなれて大学の家族りょうに引っ越した。
 「家族はいっしょにいなくてはだめだ。みんなで兄ちゃんを守ってやるんだ」と父ちゃんはいつも言っている。だからぼくは小学校に入ってすぐに転校した。父ちゃんも東京の病院につとめるようになった。兄ちゃんは毎日おそくまで勉強をしているけれど、どんな勉強なのかは知らなかった。兄ちゃんの部屋に入ると戦争の本がたくさんあった。
 「兄ちゃんは『平和』の勉強をしている。世界中から戦争がなくなればきっとみんな幸せになると、兄ちゃんは信じているんだ」
 ある日兄ちゃんからそんなことを聞き、兄ちゃんひとりががんばってもどうしようもないと思った。でも兄ちゃんは負けない。それはひとりのお医者さんの言葉をいつも思い出しているからだと、父ちゃんから聞いてぼくは兄ちゃんのすごさが分かった。
 何度も手じゅつにたえた兄ちゃんは、五才になって初めて自分の足で立ち上がった。兄ちゃんの手じゅつをすすめたお医者さんが、ずっと兄ちゃんを心配してくれ、ぜったいにあきらめなかったそうだ。多くのお医者さんがもうだめだと言ったけれど、先生はどこまでもあきらめずにいてくれた。
 小中学生のころは入院が続いたため、兄ちゃんはまともに学校には行けなかった。入院中はテレビやビデオを見ていたけれど、そのときに先生はよく兄ちゃんのところにやって来て  「神様が必要だと思ったからこそ、この世に君を送って下さった。だから勉強して人のためにがんばれるようになりましょう」
 兄ちゃんからその話を聞いて、ぼくもその通りだと思った。健康な人とちがう自分がいやで仕方がなかったから、勉強なんてしなくてもいいと思っていたのに、兄ちゃんは一生けんめい勉強を始めるようになった。毎日いろいろな本を読んで、兄ちゃんのベッドは本だらけになったという。その本は今ぼくが読んでいる。
 それからずいぶんまよったけれど、その言葉をくりかえし思い出して大学に進む決心をした。兄ちゃんは父ちゃんに車いすを押してもらい、よく沖縄に出かけて行った。第二次世界大戦のときの沖縄の研究をしている。母ちゃんのふるさとが沖縄なので、それでいつも行っていると思っていた。だけど兄ちゃんの出版した本には、沖縄であった戦争のことが書いてあって、ぜったいに戦争はしてはいけないとうったえている。沖縄の人が戦争によって家族を失い、今も苦しんでいるようすも書いてある。
 先生の言葉が兄ちゃんを動かした。足もそうだけど兄ちゃんが人のためになる働きをしたいと思ったのは、兄ちゃんの命を助けた先生の言葉だった。兄ちゃんに教えてもらいながら、ぼくも作文の勉強や平和の勉強を始めた。むずかしいことばかりで分からないことが多いけれど、毎日勉強することが大切なんだろうな。
 兄ちゃんの部屋の電気は夜おそくなっても消えることはない。


続きは・・・http://www.med.or.jp/kokoro/26/
2008年8月16日付(日医ホーム心に残る医療>)

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