2008年5月15日木曜日

ケアノートシリーズより

田辺鶴英さん
無理しない 面白がる
「不まじめ」で行こう
 講談師の田辺鶴英さん(52)は、実母と義母の介護経験があり、現在は「じいちゃん」と呼ぶ義父の晋さん(88)を自宅で介護しています。
 その体験を語る介護講談も人気を呼んでいます。自ら「不まじめ」と話す、田辺さんの介護の極意とは――。
最期は自宅で
 じいちゃんと同居して丸2年になりました。認知症で寝たきり、要介護度は5。知り合いに「じいちゃんと出会うための結婚だった」と言われるほど、面白いんです。
 1990年に義母が亡くなり、寂しくなったじいちゃんは、高齢者同士のお見合いで会った女性と13年一緒に暮らしてました。でも2005年の暮れに、連れ戻しに行ったんです。「寝てばっかりいる」「様子がおかしい」と電話で聞かされたから。でも、じいちゃんは「帰らない」。
 その時は自分の足で歩いていたけれど、翌年1月4日にトイレで倒れました。16日朝になって「夜中に大声で騒ぐから連れに来てくれ」と。行ったら、おむつをして手がまひ状態に。後で脳こうそくと分かりました。「病院で検査入院」と説得して連れ出しましたが、大声を出すというので入院させてもらえず、その日から介護が始まりました。

続きは・・・http://www.yomiuri.co.jp/iryou/kaigo/note/20080113-OYT8T00195.htm

2008年1月13日付(読売新聞)

仲道郁代さん
仕事も子育てもしっかり
お願い上手になる

 ピアニストの仲道郁代さんは、父親の真也(しんや)さん(74)を自宅で介護しています。小学5年の娘、舞琴(まこと)さん(11)の子育てもし、国内外での演奏活動も精力的。もちろん、すべて一人の力では難しい。お願い上手になって周囲に助けてもらうこと、前向きな気持ちになることを心掛けていると言います。後悔したくない
 父が脳こうそくで倒れたのは2006年12月。私は娘と外出していました。自宅の居間で4、5時間も苦しんでいたらしいのです。すぐに病院に運びましたが、翌日、静岡でコンサートのスケジュールが入っていたので、徹夜で付き添った後、東京をたちました。
 仕事は普段通り精いっぱいやりました。どんなに時間が遅くなっても父には出来るだけ毎日会いに行きました。10年ほど前に母が亡くなった時、十分に看病出来なかったので、父の介護では後悔したくありませんでした。
 真也さんは07年4月に退院。要介護度は2。左半身にまひが残ったものの、つえを使えば歩くことは出来た。仲道さんは自宅の廊下に手すりをつけたり、寝室のそばに新しいトイレを作ったりした。ただ、真也さんは物事の判断や感情のコントロールがうまくできなくなっており、どうやって介護していくか悩んだ。仲道さんは演奏活動で1年の4分の1は家を空ける。この年はデビュー20周年にあたり、多忙を極めていた。
 娘のための時間もなるべくとりたいと思いました。学校行事や習い事の送り迎えもあります。友人、知人に悩みを打ち明けると「うちの場合はこう介護したよ」などと、教えてくれました。

続きは・・・http://www.yomiuri.co.jp/iryou/kaigo/note/20080210-OYT8T00263.htm

2008年2月10日付(読売新聞)

小菅もと子さん
信頼できる医療関係者と
「終末期」も私なりに
 映画「折り梅」の原作者、小菅もと子さんは、義母のマサ子さん(2006年10月、90歳で死去)の介護を12年間、続けました。亡くなる前、終末期の介護をどうするか、悩んだといいます。
新しい才能開花
 義母がアルツハイマー病と診断されたのは、1994年、78歳の時のことです。当時、私は子育てに追われながらパート勤めをする41歳の主婦で、認知症のことは何も知りませんでした。義母は認知症の専門家から絵を描くことを勧められ、近所の教室に通い始めました。
 マサ子さんは絵画教室に週2日通い続け、公募展で入賞するほどの作品を描くようになった。97年と98年には水彩画、油絵、粘土細工や手芸を集めて個展を開いた。
 当時は「認知症になったら何もかもできなくなる」と思われていました。義母のように、新しい才能を開花させることもできると知ってもらいたくて個展を開いたのです。
 義母が絵を描けたのは発症から9年目、2002年までです。その年、軽い脳こうそくを起こした後は言葉が出づらくなり、絵筆も持てなくなりました。
 要介護度は3から5に上がり、身体介護が中心になりました。ポータブルトイレが使えなくなって、紙パンツ。食べる時は見守りが必要です。幼い子に戻ったような状態で、私は一人で義母のヘルパー、栄養士や母親など多くの役を担っている感じでした。

続きは・・・http://www.yomiuri.co.jp/iryou/kaigo/note/20080309-OYT8T00246.htm

2008年3月9日付(読売新聞)

森永卓郎さん
妻は限界 愚痴を聞く
役に立てない後ろめたさ

 経済アナリストの森永卓郎さん(50)は、父親の京一さん(82)が1年半前、脳こうそくで倒れて以来、自宅で介護する妻の弘子さん(48)に大きな負担をかけてきたそうです。仕事で多忙な毎日を送る森永さんは、突然降りかかった家族の介護という現実に、どのように向き合っているのでしょうか。
「あなたと離婚」
 「もうあなたと離婚するしかない」――。カミさんからそんなメールが来ると、私は「まあまあ……」と返事をします。オヤジー、もう少しうまくやってくれよー。分刻みのスケジュールの合間に携帯の画面を見つめ、我が家で格闘中の妻と父の姿を思い浮かべます。
 2006年11月に脳こうそくで倒れた父は、左半身マヒの後遺症が残り、自力での生活が困難になりました。自宅で2人きりのことが多い妻と父はストレスの塊です。父がデイサービスの送迎の運転手に「こんなに早く家に帰りたくない」と言ったとか、医師に「うちの鬼嫁が」ともらしたとか。
 そんなことでけんかになった両者の言い分を、私は後でたっぷりと聞かされます。
 森永さんは、雑誌などの原稿執筆だけで月に50~60本の仕事を抱え、ほかにもテレビやラジオ出演などに引っ張りだこ。この7年間、休暇を一日も取っていないと言い、自宅に帰るのは週末のほんのわずかな時間だけだ。糖尿病を患っていた母親が8年前に亡くなった時は、風邪で寝込んでの急死だったため、家族の介護に直面するのは初めてだった。

続きは・・・http://www.yomiuri.co.jp/iryou/kaigo/note/20080413-OYT8T00208.htm

2008年4月13日(読売新聞)

山口美江さん
父の誇り 傷つけない
認知症告げ 近所と協力
 タレントで雑貨店も経営する山口美江さん(47)は、認知症の父、俊雄さん(2006年9月に76歳で他界)の介護に直面しました。一人っ子で、母は16歳の時に他界。父と2人で築いた穏やかな暮らしが一変します。
 アルツハイマー病と診断される前から、「年なのかなあ。それにしてもちょっと……」とは思っていました。
 父は、父の兄と一緒に横浜で貿易会社を経営し、数字に明るかった。1998年に68歳で引退してからも、私の店の経理を見てもらっていました。暗算でしていた計算を、いつからか電卓に頼るようになりました。おしゃれで全身パーフェクトな格好だったのが、合わない柄を着たり、真夏に毛糸の靴下をはいたり。
 幼い時から「口を閉じていないとアホに見えるぞ」と何度もしかられたのに、父自身が口をぽかんと開けた、見たことのない表情をするように。老いを感じましたが、指摘するのがかわいそうな気がして言えませんでした。
 2004年9月早朝、山口さんは、グレーのスーツを着込み、うつろな顔で玄関を掃除する父親を発見する。「名古屋に出張に行く」など意味不明な言葉に、「脳の血管が切れた」と覚悟した。その異常行動は風邪薬を大量に飲んだせいと後でわかったが、運んだ病院でアルツハイマー病と診断された。
 医師には、前頭葉が欠損して風邪薬を飲んだことも忘れている、ゆっくり病気が進行して、やがて人格も変わってしまうと言われました。

続きは・・・http://www.yomiuri.co.jp/iryou/kaigo/note/20080511-OYT8T00202.htm

2008年5月11日付(読売新聞)


 

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