2007年11月18日日曜日

アトムと私 シリーズ

(6)母と離れ一人暮らし
   食事、入浴ヘルパーが支援

 同志社大学に入学後、私は母とアトムと京都府京田辺市の一軒家で暮らし、父と大学生の弟は、岐阜の実家で2人で生活していた。美容師の母は、指を骨折してもハサミを握るほどだったが、事故後は美容院を閉めていた。

 学生生活に慣れてくると、母と一緒の生活から卒業したいと思うようになった。「自立するとともに、母にも仕事に戻ってもらいたい」との思いが募った。

 大学3年から、京都市の今出川キャンパスでの講義が中心になる。京都市内に引っ越すことになり、思い切って、一人暮らしを切り出した。

 「車いすから落ち、アトムが電話を運んでくれたって誰を呼ぶの?」「包丁も握れないのに、どうやってご飯を作るの?」「お風呂は?」「友達を呼んでも、いつでも来てくれるもんじゃないよ」。母の反対は当然だった。

 2年の冬休みに実家へ帰省した時、活路が開かれた。親交のあった頸髄(けいずい)損傷者連絡会岐阜の上村数洋(うえむらかずひろ)会長(当時)の奥さんが、障害者本人が福祉サービスを選ぶ支援費制度が4月から始まる、と教えてくれた。

 京都市で自立生活相談に乗っている障害者地域生活支援センター「きらリンク」に行き、市内の訪問介護事業者一覧表をもらった。順番に電話をかけ、2事業者から承諾を得ることができた。
 「朝夕決まった時間にヘルパーさんが来て手伝ってくれる。口があるから説明やお願いはできる。大丈夫だから」

 ヘルパー制度と1週間の予定を母に伝えると、納得してくれ、母自身も美容院の再開を考え始めた。
 マンションで母と別れて生活を始めたのは、3年の秋。ほぼ毎日、朝夕にヘルパーが来てくれ、食事や入浴の介助をしてくれた。戸締まり、火の元を何重にもチェックし、携帯電話を枕元に置いた。「何かあった時のために」と、同じ大学に通う友人の池田かおりさん(25)には鍵を預かってもらった。

 「一緒に太巻きずしを作った時、手先が不自由だと料理も大変なんだと改めて知った。ヘルパーがいる間はいいけれど、いない間はアトムだけで大丈夫だろうかと心配だった」と池田さん。

 障害者仕様の車を運転して通学した。運転免許は事故後、20歳で取った。アクセルとブレーキのレバーを左手で操作し、ハンドルは右手にベルトで固定して運転する。最初は心配してキューキューと鳴いたアトムも、次第に私の運転でも寝るようになった。
 少しずつだが、自分の生活が組み立てられるようになった。

支援費制度
 行政が決めていた福祉サービスの種類や提供事業者を、障害者本人が選べるようにした制度。障害者はかかった費用のうち、支払い能力に応じた自己負担分を支払い、残りは市町村が「支援費」として事業者に支払う。2003年4月から始まった。06年4月には障害者自立支援法が施行され、国と都道府県にも負担が義務づけられた一方、障害者も原則1割の自己負担が求められるようになった。

(2007年10月23日 読売新聞)

続きは・・・http://www.yomiuri.co.jp/feature/atom/fe_at_07102301.htm

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