後輩と語り合う思い出
4月、若木が10輪の花をつけた。淡い黄色の、ふっくらとしたモクレン。
「去年は1輪だけだったのに」。兵庫県丹波市の自宅の庭で、上田直子さん(69)は咲き誇る花に目を細めた。〈お母さん、元気に咲いたよ〉。そんな声が聞こえる気がした。
脱線事故で亡くなった長女の平野智子さん(当時39歳)の一周忌に、智子さんの参加していた絵本の読み聞かせグループの主婦たちが植えてくれた。
その木に並んで立つモクレンは18年前、智子さんが結婚の記念に手ずから植えた。毎春、純白の花を咲かせる枝の下に、上田さんは石造りの小さな祠(ほこら)を置いて娘をまつった。
事故の4日前、グループの仲間との語らいで、智子さんが口にしたという。
〈私がもし死んだら、お骨をモクレンのそばにまいて。花が咲いたら、みんなが見に来てくれるから〉 子供のころから花が好きな娘だった。同県三田市に嫁いだ後も、庭に花を絶やすことがなかった。だが、中学生と小学生の3人の息子を残し、突然に逝った。
二度と会えない。その現実に心が押しつぶされそうになる。床に就き、夫の秀夫さん(70)と娘の話をしない夜はない。天国との交換日記のつもりで、日々の出来事をノートに書き、智子さんに報告するようになった。
一周忌を過ぎた母の日。真っ赤なカーネーションの鉢植えが届いた。「智ちゃんから?」。送り主は、娘が幼稚園に勤めていた当時の後輩、久保千都(ちづ)さん(41)(神戸市)だった。20年ほど前、自宅に遊びに来たことを覚えていた。
お礼にかけた電話口から明るい声が聞こえた。「お母さん、ええ花じゃないけど」。お母さん――。娘からそう呼ばれる日は、もうないんだと思っていた。
久保さんが1987年に勤め始めた神戸市の幼稚園で、智子さんは1歳違いの先輩教諭だった。快活な智子さんは、後輩を「ちぃちゃん」とかわいがった。翌年、教材用のカタツムリを捕りに丹波市の実家に泊めてもらい、お母さんの手料理もごちそうになった。
智子さんが結婚退職するまで、いつも姉妹のように一緒だった。ケーキを食べ歩いたり、たこ焼きパーティーを開いたり。その「姉」を、脱線事故が奪った。
実家にカーネーションを贈った後も、上田さんとはがきやメールを交換し、煮物や季節の食材を送り合った。事故から3回目の春が近づき、「お母さんに会いたい」と思いが募った。
今月15日、上田さんは久保さんを自宅で迎えた。20年ぶりの再会だった。
幼稚園勤務のころに智子さんがこしらえた「飛び出す絵本」を久保さんが持参してくれた。「手先が器用で園でよく作ってました。料理も上手で」。初めて知る我が子の横顔。ささやかな発見に、涙があふれた。
「これからは、私を娘と思って何でも話して」。久保さんの優しい声が、帰らぬ人のそれに重なった。
庭を、ふっと春の風が渡った。黄色い花が揺れた。「智ちゃんが笑ってる」。母の心も、弾んだ。
107人が死亡した2005年のJR福知山線脱線事故から25日で3年となる。時を経ても鮮烈な、惨禍の記憶。遺族や負傷者は、失われた命への思いを胸に歩き続ける。
続きは・・・http://osaka.yomiuri.co.jp/tokusyu/dassen/jd80420a.htm
2008年4月20日付 (読売新聞)
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