2008年4月22日火曜日

そして歩む<中> 60歳区切りの決意

パソコンで日記娘への「手紙」
CDの封を切ることが、父には今もできない。
 大学4年だった容子さん(当時21歳)を亡くした奥村恒夫さん(60)(兵庫県三田市)は、包装されたままのCDを仏壇にしまっている。事故前日、娘と2人で図書館を訪れ、貸し出しを予約したバッハの「無伴奏チェロ組曲」。
 事故後の6月13日、容子さんが迎えるはずだった誕生日にCDを買った。寂しくて、つらくて、娘の存在を近くに感じたい時に眺めてみる。でも、「包装を解けば、娘がどこかへ行ってしまいそうに思える」。
 妻(55)や近所の人たちは「仲良し親子」と呼んだ。図書館や買い物、食事にもよく一緒に出かけた。事故当日の朝も、携帯電話に「今晩行くの?」と夕食に誘うメールが届いていた。しばらくして「行こう」と返事したが、答えはなかった。
 事故後、心的外傷後ストレス障害(PTSD)と診断され、会社を辞めた。その後に就職した三つの会社も長続きせず、次々と退職。何度も「容子のいる場所へ行こう」と考えた。
 「うちの娘を殺しやがって」。先月、福知山線の車内で、思わず車掌に向かって叫んだ。JRが憎いからだけではない。乗客に聞かせたかった。事故を忘れるな、と伝えたかった。
 娘にあてた手紙のつもりで毎日、パソコンで日記を書いている。
 〈生きていたら、人生で一番楽しい時期ですね〉
 〈そろそろ帰って来い〉
 〈容子だったら今、誰(の曲)が好きになっていただろう。会いたい〉
 エジプト研究の学芸員を志した娘のため、遺骨を混ぜた粘土でオカリナを二つ作り、一つを人に託してカイロ近郊の土に置いた。もう一つは手元に残した。時折、娘の好きな「アメージンググレース」を吹く。娘と一緒に奏でている。そんな安らぎを覚える。
 「あの子が喜びそうなことなら、何でもしてやりたい」。それを縁(よすが)とすれば、生きていける気がする。
続きは・・・http://osaka.yomiuri.co.jp/tokusyu/dassen/jd80421a.htm
2008年4月21日付(読売新聞)

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